Noisecontrollersの10周年ドキュメンタリーを和訳した [前編]
2015年12月に公開されたドキュメンタリー動画「10 Years Noisecontrollers Documentary」の内容を和訳しました。前半戦です。
2015年に活動10周年を迎えたNoisecontrollers。
12月には10周年記念アルバムである「10 Years Noisecontrollers」がリリース。また、これまでの活動を振り返ったドキュメンタリー動画「10 Years Noisecontrollers Documentary」がYoutubeにて公開されました。
動画は1時間で、NoisecontrollersことBasを中心に様々なアーティストや関係者へのインタビューを行ったもの。
皆さんオランダ語でしゃべってるっぽいのですが英語字幕で視聴することができます。
で、字幕付きとはいえ、1時間英語で動画を観るのは結構大変なのではと思い、今回字幕の文章を書き出して全文を和訳してみることにしました。
結果、自信ない箇所やよくわからなくてすっ飛ばした箇所等が少し発生したものの、内容がつかめる程度には和訳出来たのでこの場に公開しようと思います。
現在Noisecontrollersとして活動しているBasが音楽活動を始めた時のこと、元相方であるArjanとの話から最近までのことが赤裸々に(?)語られており、とても興味深い内容になっています。
書き起こすと結構な長さになってしまうので前後半に分けて公開するつもりです。
なお、誤訳など間違っている部分があるかもしれませんのでご注意を。(見つけてくださった方は教えていただけると助かります)
また、動画で観るのをもちろんオススメします。
==10 Years Noisecontrollers Documentary==
An Editz Production
Basと電子音楽の出会い、そして楽曲制作の始まり
Bas (Noisecontrollers)
「4歳の時、僕には良い友達がいた。
彼はJean Michel Jarreのテープを持っていて、それが僕の電子音楽との出会いになった。
僕はそのテープを何週間もの間、何度も何度も再生していた。最高だった。それからというもの僕は電子音楽を追いかけてきた。
ある時、僕がそういった音楽を聴いているのを見ていた父がキーボードを買ってくれた。
そして15歳の時、僕はコンピューターで音楽を作り始めた。あの頃はFastTracker2を使っていた。
僕はサンプル音源を使って色んなことが出来るようになって、作曲を始めた。数年間、僕はココに座ってPCで音楽を作っていた。」
Bas
「ココが僕の寝室であり、PCで初めて音楽を作り始めたスタジオだ。このテーブルに最初のスタジオを作った。」
Aukje Oskam (Basの姉。妹かも)
「Basはいつも寝室にいたのを覚えているわ。彼は部屋で短いミュージック・クリップを作っていたの。とてもうるさかったんだけれど、彼はずっと音を鳴らしていたわ」
Bas
「この部屋の隅で最後に書いた曲は”Marlboro Man”だった。だけどその曲よりも前には数百曲は作った。16か17歳の頃だ。練習に練習を重ねた。僕がここでガンガン音を鳴らしてたのが家族に聞こえていたと思う。」
▼Noisecontrollers - Marlboro Man
Aukje
「私たちは『Bas、やめて。何をしてるの?』って叫んだわ。『ヘッドホンを置いて、そのノイズを止めて』って。でもBasは曲を作らなければならなかったんでしょうね。それでも聞くに堪えなかったの。私たちは曲を聞いたことは一度もなくて、短い断片みたいな音楽しか聞かされなかったからね。」
Bas
「家での作曲は趣味だったんだ。いつだって作曲をするべきだと感じていたし、気づいてはいなかったけどある種の才能か駆り立てられる何かがあったんだ」
Aukje
「確かある日バーベキューをした時にBasの音楽について話しあったことがあったわ。彼は私たちに音楽を聴かせた後で、『他人にこの曲を聴かせる自信がある』と言ったのよ」
Bas
「父はそれを良い考え方だとは思わなかった。
彼は『お前には幸せになってもらいたい。だから自分のことをもっと心配したほうがいい』と僕に言った。デビューしてからはあまり厳しくなくなったけどね。
またある日には、僕は母にお金を貸して欲しいと頼んだことがあった。スタジオを借りるためのお金だ。母は何も尋ねてこなかった。どうして僕にお金を貸してくれたのかわからないけど、彼女はそうしてくれた。頼んだらすぐに貸してくれた。僕は2,3ヶ月でお金を返したけど、一度も疑うことがなく貸してくれた。
父は違ったけど、僕の仕事が上手くいくなんてわからないからね。」
The Fusion of Noisecontrollers
Arjanとの出会い、そしてFusion Recordsからデビューへ
Bas
「どうやって僕がArjan(元Noisecontrollers)に会ったか。それはとても面白い話になる。
僕たちはある作曲フォーラムのメンバーだった。
『どんな機材持ってる?』『普通のPCだ。』
おかしなことに、これだけのやりとりで僕たちは会うことを決めた。
たったこれだけでスタジオに行こうなんて誰も思わないだろうけど、どういうわけだか僕らはそうした。彼は車で1.5時間かけてやってきた。
僕たちには音楽と、スタジオの機材と、情熱があった。そして僕たちはハードスタイルだけでなく他の音楽にも興味があった。ArjanはHip-Hopにハマっていたし、僕はハードコアやハードトランスが好きだった。僕たちはハードスタイルが特にクールだってことで意気投合した。というわけで、僕たちの目標はハードスタイルの曲を作ることだった。
それがNoisecontrollersの始まりだった。」
Johan Van Korven
(Fusion Recordsのレーベルマネージャーであり、ハードスタイルユニット「Donkey Rollers」の一人)
「2006年、僕の友達があるフォーラムのリンクを送ってきた。『これを見てみろ、お前を真似てるぞ。Donkey Rollersそっくりだ』って。僕はそのフォーラムから"Wannabe"という名前の曲を見つけた。それはDonkey Rollersの曲に確かにそっくりだった。
そっくりな曲を作ってアップすることの是非はさておき、僕はその曲がとても上手く作られていると感じた。
それで、僕は”Wannabe"を作った人物に会うことにした。それがBasとの出会いになった。
彼は『"Wannabe"については申し訳なく思ってる、けどDonkey Rollersのファンなんだ』と言った。
彼はDonkey Rollersのような曲を作りたかったんだ。だから"Wannabe"っていう曲名だった。腹は立たなかったし、ある種、ファンからの賛辞だと思った。
話をした結果、彼がクリエイティブな曲を作っているってことがわかった。何かを模倣したり、それを自分なりのスタイルに作り変えることは難しい。それができるというのは非常にクリエイティブなことなんだ。
こうやってNoisecontrollersが始まった。」
Bas
「当時二つの大きなハードスタイルのレーベルがあった。ScantraxxとFusionだ。そして僕らはFusionのファンだった。僕たちはDonkey Rollers, Zany, Michel Pollenを尊敬していた。
彼らは僕らに会いたいというメールをくれた。インターネットで僕らを見つけたんだろう。
僕はすぐにArjanを呼んだ。『Fusionが会いたいってメールをくれたぞ!』って。それは僕の人生で最高の日だった。
そして僕らはFusion RecordsのあるEindhovenへ行き、Zanyと会った。
Michel Pollenのスタジオを見ることもできた。地上の楽園のようなところだった。そして、Fusionと契約したいと思った。」
Johan Van Korven
「彼らの1stリリースは言及すべき価値のあるものになる必要があった。
昔の曲を一気にリリースするのが始まりだなんていうのは嫌だろ。
だから僕は彼らに新しい曲を書かせ、その中からFusionでリリースする曲を選んだ。
彼は映画「グレムリン」のサンプルを使って”Creatures"という曲を作ってきた。あれは本当に面白い曲だった。」
▼Noisecontrollers - Creatures
Bas
「最終的にFusionは"Creatures"と"Against All Odds"をリリースすることにした。
それが僕らのFusionでの1stリリースになった。
その時、僕のキャリアは満たされたと思った。夢が叶ったんだ。」
▼Noisecontrollers - Against All Odds
Zany (ハードスタイルアーティスト。Donkey Rollersの一員としても活動)
「その曲は完璧だった。素晴らしいサウンドだったし、当時のFusionのサウンドだと感じられた。間違いなく優れていた。」
Michel Pollen
(Fusion Recordsのプロデューサー。Donkey RollersやThe Pitcherの楽曲制作も行っている)
「当時の僕らはハードスタイルにおいてメロディに気を配っていた。
タフなメロディが必要で、だからそのことだけに集中していれば良かったんだけど、彼らはあらゆる事に気を配り、さらにそこから一歩高みにさえ登っていった。そしてその曲は斬新で、かつ非常に独創的だった。」
Johan Van Korven
「”Crump"は2つ目のリリースで、ZanyがDefqon.1でプレイした。
その時初めてその曲を聴いたオーディエンスはみんな大騒ぎした。うまくいったと思ったね。」
▼Noisecontrollers - Crump
Michel Pollen
「普通、何かに取り組むときは自力で解決していくものだと僕は思う。
彼らの曲の中にはまだ改良の余地があると僕は思った。」
「当初、Noisecontrollersは新しくてカッコいい、Fusionらしい曲を作ってると言われていた。
聞いたところによると初めは僕らの変名義だと思われていたらしい。しかし彼らは自らの曲とともに、たちまちFusionの一員になった。
その曲は石のようにハードで、そしてキャッチーで完成された曲だった。」
Bas
「2008年、僕らはスタジオをEindhovenに移し、新しい人々と新しい環境に慣れる必要があった。
それはArjanと僕にとって大きな変化であり、またNoisecontrollersを変えた。僕のキャリアにとって重要な場所だ。
Arjanと僕のスタジオは隣にあって、僕らは一緒に制作することができた。制作にもってこいの場所だった。
僕たちはこの場所で制作できる事を誇りに思っていたし、Zanyを尊敬していた。
Donkey Rollersは僕らのヒーローであり、Fusion Recordsは僕たちにとって名門のハードスタイルレーベルだった。僕たちがすぐにそこから曲を出すことができたのはありえないことだった。」
Johan Van Korven
「ArjanはHoogeveenから、BasはVeenendaalから来た。旅行と言ってもいい。
彼らのフィードバックは早かった。勉強熱心で、MichelとZanyがやっていることを見聞きして学んでいた。」
Bas
「僕はアルバイトで音楽を作ったり教えたりすることができたけど、常に音楽を作っていたかった。
1日8時間くらい音楽を作り、絶えずスタジオに居たよ。制作を愛してたし、やりたいことが山ほどあった。Fusionからのリリースがモチベーションになっていた。」
「Basが来るとドアをバンッて閉めるんだ。彼はいつ帰っていたのかわからない。Arjanはあちこちフラフラしてたかな。二人はかなり違っていた。BasはArjanよりも多くの曲を作っていた。」
Bas
「音楽を作ることに取り憑かれていた。モチベーションが山のようにあって、そのお陰で自分の仕事を成功させることができた。」
Johan Van Korven
「徐々に彼はDJとして曲をプレイすることを楽しみ始めた。
長いことスタジオにいたのもあるけど、その制作の結果を見ることで新しいエネルギーに繋がるからだ。」
「ソーシャルメディア上でバズってたのを覚えている。人々は待っていたんだ。いつNoisecontrollersの新しいリリースが来るんだ?とね。だから当時は本当にアツかった。」
Bas
「僕の野望はFusion Recordsから曲をリリースすることだった。そして僕の夢は叶ったけど、難しい問題にも直面しなければならなかった。
もし音楽で生計を立ててプロとしてやっていきたいなら、レコードを売りたいという気持ちだけでは十分な物を作る事は出来ないだろう。それでは十分に稼ぐ事は出来ない。」
Johan Van Korven
「僕はBasに『君は外に出て自分自身を紹介したほうがいい。そうすればファンも増えるし、自分の曲を宣伝出来るよ。』と言った。
BasはDJの勉強を始めた。最初のブッキングの時、Basは何をしていいのかわからなくてただ手を叩いてた。仕方ないけどね。」
Bas
「それがベストであることを願い、困難な状況へと飛び込んだ。
僕らはみんなにアピールできるような良い音楽をつくりたかったし、パフォーマンスをみんなに楽しんでもらいたかった。」
Meaning of Noisecontrollers
「Noisecontrollers」の由来
Bas
「スタジオでは音楽をコントロールしなければならない。シェフが調理道具を使いこなすように、僕らがスタジオで起こることをコントロールすれば素晴らしい音楽が作れると確信していた。だから僕らは自分たちをNoisecontrollersと呼んだ。僕たちにピッタリの名前だ。」
The Next Level
Defqon.1への出演、さらなる飛躍
Bas
「僕らが上手くやってくれると信じてか、多くの人たちが僕らに会いに来た。Q-Danceに関心を持たれていたり、他のブッキングエージェントも僕らに興味があった。
でも僕らはFusionに留まっていたし、Johanがブッキングを扱っていた。だけど2008年か2009年に僕らはブッキングのエージェントを変えた。もっと大きなステージに出演できることになったからだ。それが僕らの夢であり、僕らのキャリアにとって論理的な一歩だった。
おかげでDefqon.1に出演する準備ができた。2009年のQlimaxにさえだ。あっという間のことだったよ。」
Johan Van Korven
「遅かれ早かれQlimaxに出る運命にあった。うまくいかないわけがない。彼らは成長したし、さらにひたすら成長を続けていた。」
Bas
「2009年のDefqon.1より大きなメインステージを僕は知らない。
Q-Danceの企画では僕らが水上飛行機でやってきてステージに上がることになっていたんだ。
僕らは出番の前からすでに緊張してた。だから水上飛行機が僕らの緊張を解くこともなかったね。」
Rogier Weaver & Jonas Schmidt (Q-Dance)
Rogier Weaver (左)
「オーディエンスを目の前に彼はステージに上がった。我々が計画していたものとは違っていたが、振り返ってみると素晴らしかった。」
Jonas Schmidt (右)
「あれは未だに面白い。」
Bas
「(演出について?)笑う人もいた。そういう人たちは他のジャンルの中でちゃんとしたキャリアを持っていたからね。でもArjanと僕にとっては最高に面白かったし、素晴らしい時間だったよ。」
Jonas Schmidt
「音楽を発展させていくのは一種の相互作用だ。僕らはプラットフォームについて考え、彼は音楽を作ってくる。
お互いに刺激しあった。彼が作った曲を最初に聞くと、ステージやショーを頭に思い描くことができたんだ。」
A New Chapter
Wildstylez, Headhunterz, The Prophetとの共同作業。そして"World Of Madness"へ
Bas
「Arjanは次第にスタジオに来ることが少なくなっていった。
仕事が山積みで、僕はいつもスタジオにいた。新しいスタジオを持ち、そしてキャリアを築いていきたかった。
僕にはものすごくモチベーションがあった。そして僕が思うに、僕らの間にはDJデュオではなくプロデューサーデュオとして深刻な隔たりが生じていた。」
「彼らはスタジオからUtrechtまで毎日車で移動する必要があった。それが分裂のきっかけになったんじゃないかと僕は思う」
Bas
「FusionのライバルであるScantraxxは彼らのスタジオをDe Meernに移した。そこは僕が毎日行かなければならなかったEindhovenより家に近かった。」
Wildstylez (ハードスタイルアーティスト)
「2009年、The ProphetとHeadhunterzと僕でスタジオを建てようというアイデアがあった。お互いに刺激しあい、より良いものを共に作っていく場所だ。」
Bas
「彼らがスタジオに来ないかと誘ってきたのは僕にとって難しい選択になった。Fusionは僕らの曲を売り出してくれるけど、それとは関係なくスタジオを移したかった。僕らはみんな一緒にやってきたからね。」
The Prophet (ハードスタイルアーティスト)
「僕とHeadhunterzとWildstylez、そしてNoisecontrollersはかつて一つのグループだった。彼らはよく一緒にいたしね。彼らは共に制作し、仲良くやっていたから、Noisecontrollersが僕らに加わるのは良いアイデアのように思われた」
Bas
「Arjanはそうしたくなかった。彼は実際2年ほど良くない年を過ごしていた。
彼はEindhovenに留まりたかったから、最初は僕もEindhovenに留まることを決めた。
だけど僕らはいつもバラバラで働いてて、僕はいつも一人でスタジオにいたし、一人でEindhovenへ行ったり来たりの生活だ。だから同じ志を持つ人たちに囲まれることはNoisecontrollers、そして僕の制作にとって良いことだと思った。僕はただ音楽によって駆り立てられていたし、そのためになんでもする準備をしていた。」
Wildstylez
「長い間話した結果、彼はこちらへ移ることに決めた。」
The Prophet
「お互いにスタジオで刺激しあえる人間が集まることは良いことだと思っていた。」
Bas
「スタジオが2010年に完成して、4つのスタジオができた。ここが僕のスタジオだった。窓が一つもないのが不便だったけど、スクリーンで音楽を作っていたから気にならなかった。
僕は2年間ここにいた後、こっち(手前のドア)のスタジオに移った。こっち(背後の閉まってるドアの方)ではWildstylezやThe Prophetが作業していた。僕はこっち(下の画像のスタジオ)のスタジオに移ってから4年半ほどここにいた。」
The Prophet
「時々全部のドアが開けっぱなしで騒音しか聞こえない時があった。みんなしてメロディを書いていてね。ちょっとカオスだったけど楽しかったよ。」
Bas
「僕は変わりなく制作を続けたが、Arjanはマスタリングやライブアクトといったような事を主にやるようになった。しかし、楽曲制作にとって新しい環境に移るということは重要なことなんだ。」
Wildstylez
「僕が新曲を作ったら、まずBasかHeadhunterzかThe Prophetに聞かせた。みんなで曲を聞いて『ここを変えたほうがいい』とか「スタジオに戻って変えてきたほうがいい」とか言い合った。もしくは僕のスタジオに彼らが聴きにやってきたりした。」
The Prophet
「素晴らしい時間だった。エネルギーに満ち溢れていた。」
Headhunterz
「僕らはいつもお互いを高めあっていた。誰かが凄い曲を作ったら『これはヤバいぞ』って言ったりして、そんな具合に僕らは切磋琢磨しあっていた」
Wildstylez
「Basには彼独自の物の見方があった。『このコードをこんな風にアレンジしなおした』って言ってきたりしたこともあった。僕らはあらゆることをしたし、それが僕らをより成長させたと本当に思う」
Bas
「僕らは一つの大家族だった。もし誰かが良い曲やアイデアを持っていたらお互いにシェアした。それはすごく刺激になった。
誰かがクールな曲を作ったら僕はより良い曲を作らなければならなくて、またスタジオに篭った。」
Headhunterz
「僕らはしょっちゅう夜更けまで音楽を作っていた。誰かが大きな音を出すせいで、他の誰かが時々気が狂いそうになっていた。」
Bas
「僕らは夜中まで仕事をした。別世界のようだった。普通の仕事ではないね。朝の6,7時まで曲を作っていたんだ。良い例が2012年のDefqon.1アンセムである"World Of Madness"だ。3つのスタジオが開けられ、夜通し曲を作った。僕らはあの曲を一晩で作ったんだ。」
▼Headhunterz & Wildstylez vs Noisecontrollers - World Of Madness
Rogier Weaver
「あの曲はパーティの雰囲気を可能な限りの最高なやり方で表現している。」
Jonas Schmidt
「当時最高峰のハードスタイルプロデューサー3人の究極の融合だ。」
Rogier Weaver
「この曲は5〜10年はプレイされ続けるだろうし、みんな熱狂し続けるだろうな。」
後半に続きます。